デザインの刃


打ち合わせ(神田錦町)と次の予定(市ヶ谷)の間に30分の空きがあったので歩いて行くことに。途中に靖国神社があるので、二の鳥居まで通ってきました。来年が創建150年とかで改修工事が進んでいました。今は一の鳥居の塗り直しが終わったばかり。
ご承知の通りこの神社は成り立ちから現在に至る経緯までトヤカク云われる場所です。幕末期から今までの何とも言い難い時の実力者毎の思惑や矛盾の入り乱れを「神社」というフォーマットでまとめたこの施設は、その存在が特異な分、興味深い点も多いのです。
神社というものは、(生き)残った者の罪の意識が元にあり、祟り(自分の罪)に対する畏れを鎮めるために「赦せと」建立されるケースが多い施設です。菅原道真の天満宮然り、タケミナカタの諏訪大社然り。そういう意味ではこの施設は真っ当に神社なのかもしれません。ただ、私は人類学好きということもあり、祀られていそうなのに祀られていないモノ(無視されたモノ)の見えない糸(意図)をほぐすことに興味を惹かれるのですが、それはまた別の機会に。
さて、ここに来るといつも感じるのが「デザインの怖さ」です。ついつい呑み込まれそうになる巨大な鳥居や灯籠群、大村益次郎像の台座の造形やその配置、ディズニーランドや鶴岡八幡宮にも見られる強化遠近法による参道の立体感やその向こうの拝殿の存在感。創建した側の「圧倒的な力」を示すために各所に用意周到なデザインによる演出が施されています。
どちらの意味に取って頂いても構いませんが、見事としか言いようがありません。
デザインとは行動や感情の交通整理をする行為です。殆どの人は誘導されていることすら意識しません。だからデザイナーは注意しなければならない。その手にある剣はどちらに刃を向けているのか。