歴史と伝統と捏造と

歴史や伝統というものは簡単に捏造できてしまうことを、人類学を学んだ者であればピルトダウン人の一件などでよく知っているし、ノインシュヴァンシュタイン城や現行の大阪城などキッチュがオリジナルとシンボリックな意味で逆転してしまう現象も起こりうることも知っている。

なので、心ある人類学者や歴史学者は簡単には歴史や伝統を語らないし、何かの事象について言い切ることもしない。歴史も伝統も、新たな発見や世相によって常に変化するからである。そして人類学者にとっては捏造事件一連でさえ研究の対象なのである。

人が歴史や伝統という言葉を使うのは、ある存在の正当性を主張する必要がある場合が多いので、それが事実かどうかよりも、主張したい相手にとって「それっぽく見えるか」の方が大事である。雰囲気が大事なのだ。

さらに言うと、そう言ったタイプの歴史や伝統はよりセンセーショナルに「盛られた方」に擦り寄ってしまう。その素晴らしさを讃えるにも、その残忍さを蔑むにも、伝えたい相手にアガッてもらわなければ意味がないからだ。

そして、一度「それっぽい」として一般に定着してしまった歴史や伝統は、たとえ事実無根だとしても、たやすく覆らない。地域経済と結びついてしまった後ではなおさらである。インカ帝国以前の文明の証拠と言われたカブレラ・ストーンは捏造と分かった後でも土地の土産屋で売られているそうだ。

SNSが普及した現代は感情が理知より世相で力を持つ不安定な時代である。電子情報はフェイクを容易く生産出来てしまい、劣化しにくいため一旦コピーや再加工されると一次ソースを追うのは素人では難しい。

そう言った意味で、自分にとって有益かつ正確な情報をより分ける力が個人に極端に負荷になっている時代であるとも言える。「なんとなく生きにくい」感じはそう言うところからも醸し出されているのかもしれない。