「べき」「はず」「そもそも」を

「べき」「はず」「そもそも」を多用する人とのコミュニケーションがツラい。価値観や視座が固定されているので、対話というより、最初から相手の話に耳を傾けるつもりもなく、自分の主張を通す、もしくは相手の意見を論破する事が目的なのだろう。承認欲求を満たしてあげれば満足するのかもしれないが、そのお相手に選ばれてしまう方にとってはたまったものではない。
また、「べき」「はず」「そもそも」を多用している人の弁は、あたかも常識的・歴史的な価値観がバックについているテイで、ただただ持論を展開している点で実にセコい。ある意味最終的には責任を逃れる準備を怠っていない小狡さを孕んでいる。昭和のおばちゃんがよく使っていた「私が許しても世間が許しませんよ」のロジックだ。