「音楽」と「懐かしい」について

音楽に対して「懐かしい」という発言をされるのが苦手です。吹奏楽愛好家に割と多いのですが、演奏した事があるかないか、という経験が作品評価の基準だったり。聴いたとこがあろうとなかろうと演奏したことがあろうとなかろうと、作品の中に新鮮な発見を絶えず得られることが音楽表現の魅力だろうと思うのです。

いつだか「(アルフレッド)リード懐かしい」と言った人に対して「えっ!会ったことあるの?」って返したら、「そんなわけないじゃん! アルメニアだよアルメニア」って言われたことあります。これ、冷静に読むと会話になってないですよね。前提情報が分からない人は『この人が懐かしんでいるのはアルフレッド・リードという人なのかアルメニアに行った思い出なのか』って考え込んでしまいます。つまりこの発言は、全てその方の一方的で閉じた思考から発せられているのです。『アルフレッド・リード氏の作曲したアルメニアン・ダンスは学生時代に吹奏楽部で演奏したことがあり、その時のことが懐かしい』これがすっ飛ばされてゴチャゴチャになってしまっています。

ちなみに僕はずいぶん昔に東京佼成ウインドオーケストラの演奏会でリード先生とお席が隣だったことがありますが、ものすごくチャーミングな方で、当日のコンチェルトのソリストだった小倉清澄さんの演奏が終わるや否や、その巨体を揺り動かしながら盛んに「オグラ!ブラボー!!」と声援を送っていたのを思い出します。

そういえば中橋(愛生)さんが「作曲家って基本みんなとっくに死んでるもんだと(中高生には)思われてるらしい」って話を一緒に食事してる時にしてくださって結構ウケたのですが、確かに小中高生は音楽室の後ろに貼られているお歴々の肖像画こそが音楽家先生なので、みんな死んじゃってると思っちゃうんでしょうが、結構皆さんまだ生きてるんだぞ、というか新作書いてるよ!!・・・って随分話が逸れました。

 
「ごんぎつね懐かしい」「ムンクの叫び懐かしい」みたいな、その人にとっては過去の体験でしかなくても、その人生の1ページに関われたというのは表現者(作家)冥利に尽きる、という思いは分からんでもないです。僕も「あのCDのデザインされた方なんですか? 懐かしい! すごく好きなジャケットでした」と言われること結構あってそれはそれで嬉しい言葉ですし、検定教科書の仕事なんか100%の確率で「あの教科書 otoshimono さんのデザインだったんですか? 使ってました! 懐かしい〜」という感想です。そりゃそうです。普通、修了したら教科書なんて読み返さないですよ。それよりその方が立派に育ってくれた事が何より嬉しいですよ。

僕は「懐かしい」気持ちを全く否定しているわけではありません。その方にとって懐かしいのはその音楽というより、その音楽を練習していた頃の自分を取り巻く環境や出来事の思い出なのであって、その音楽は、思い出を蘇らせるスイッチの役目を果たしているのでしょう。

ところが音楽というのは一つの思い出チャンネルだけに割り当てられたスイッチではありません。僕は個人的なノスタルジアは否定しない(どころか、私がどうこう言える問題ではない)のですが、その音楽(表現)に再び巡り合ったときに、その一言で思考を止めてしまうのは勿体無く思います。聴くほどに、演奏するほどに、何かしら新しい味わいを発見できるところが音楽(表現)の魅力だと思うのです。なので、それを探す前に「懐かしい」で片付けてしまう発言をされてしまうと、その音楽の話をそれ以上その方と続けられないので、もどかしいのです。さらに、「演ったことないので知らない(興味ないので聴いたことない)」みたいな返しを頻発されてしまうと、流石にボディブロウのように「ウゥッ」と効いてきます。

なので、冒頭の通り「苦手」なのです。