妄想古代史


仕事前にmitten社長が散歩に連れて行ってやるというので付いて行く。
最近の散歩のテーマは2つあって、古代街道としての羽根倉道〜无邪志(武蔵)国造としての大国魂神社(府中)と氷川神社(大宮)を結ぶ往還道の一部だったのではないかという推測〜と、旧与野市の昭和高度経済成長期に造成された地域と旧市街地の建築物(集合・個人)のデザイン変遷です。なんとピンスポットでマニアックな話題なのでしょうと自画自賛。
今日は前者の疑問を確かめるべく庚申塔を見に。
羽根倉道上にある旧上峰村庚申塔はその他の庚申塔に漏れず道標としての役割も担っていて、与野側に「これより江戸みち」、府中側に「これより加う志う(甲州)みち」とあります。この庚申塔は宝永八年(1711)に創建されたもの。これだけ見ると、単にこの旧鎌倉支道である羽根倉道が江戸期には中山道と甲州道を結ぶ支道になっただけ、という見方もありますが、「本当にそれだけなのか?」という疑問も出てくる訳で。では鎌倉道開発以前にはなかったのか? というとボクにはそう思えないのです。そこで浮上してくるのが上のふたつの神社。古代の出雲族が関東へ進出してきた折に足がかりとしたニ社を結ぶ道では、と思った次第。歴史素人ゆえの妄想ですが、なかなか興味深くありませんか?