善さん

善さん

会社の男性用トイレの窓を開いたままにしておくと、表の麹町大通りの喧噪が入ってくる。街のにぎやかな音を聞きながらウンコをきばっていると、ばぁちゃんがやっていた大衆食堂を思い出す。
ばぁちゃんの店は広島の相生通りに面していて、目の前が本川町の電停だ。忙しく通り過ぎるチンチン電車の音が、油でギトギトになったトイレの天窓の隙間から容赦なく鳴り響く。ボクはお腹が弱いくせにかき氷ばかり食って、いつもトイレでウンウン唸っていた。
小学生の頃、夏休みになるとかなりの時間をばぁちゃんの店「善さん*1」で過ごした。店のお客さんがカープの試合を見てるのに勝手に「飛べ!孫悟空」にチャンネルを変えたり、「ポスター作るけん」と言っては要らなくなったカレンダーの裏にかき氷を持ったドラえもんを描き、「おいしいよ!」などと売れない駄菓子のような宣伝文句を唱わせていた。子どもの頭ん中に著作権なんて概念は皆無だ。油性マジックで描き上げた幼稚なポスターを店先の表通りに得意げに貼り出し、本気で客が寄ってくると思っていたのだから小学生は無敵だ。
そんなばぁちゃんの店が今年7月頭に閉店した。
戦後、原爆ドームがみえるこの爆心地付近で水団(すいとん)を売り始めてから実に60年近く、広島市民のお腹を暖め続けた。テレビは発売されてすぐ購入した。店の真ん中に設置された『世紀のメディア』に連日黒山の人だかりだったそうだ。三丁目の夕日よろしく、力道山の試合にみんな歓声をあげたことだろう。
毎年8月6日の朝は特別な日だった。ばぁちゃんもたびたび平和記念式典には参列した。1945年のこの日、近所で玩具問屋を営んでいたばぁちゃんの実家は原子爆弾で人間もろとも跡形もなく吹き飛ばされた。
店は市民球場も近いので風向きによっては野球の歓声が聞こえてくる日もあった。店には毎年カープの選手の似顔絵のついた中国新聞社のカレンダーが貼られていた。ボクが小学生の頃、カープは強かった。山本浩二に衣笠 祥雄、江夏豊に北別府学・・・、今でも1979年の優勝記念乗車券(ひろでん)を持っている。
夏にはかき氷に冷やし中華、冬にはおでんを出した。リーチ・イン・ケースに色んな惣菜を置き、お客は好きに取って自分のテーブルに持っていった。皿の大きさで勘定が決まっていた。それ以外の品は注文を受けてから作った。
「何でも好きなもん食べんさいね。」ボクと弟のケンジは何を食べてもよかった。かぁちゃんが余り顔を出さないのをいいことに、本当に好きなモノばかり食べた。ボクは茄子のおひたしと冷やし中華、ケンジは中華そばと唐揚。ただしジュースは禁じられていた。
ボクが中学生になるあたりから叔父が店を引き継いだ。ばぁちゃんも相変わらず店に出ていた。ボクがemixと結婚してからも、広島に帰省すると必ずお店には寄った。従兄弟たちもそうした。
けれども二人とも寄る年波にはきつくなってきた。叔父さんは数年前に大病を患い、ばぁちゃんは今年米寿を迎える。今年の春、店をたたむ決心をした。
ボクらにとっては名残惜しいが、人間誰でも年をとる。それに、ばぁちゃんたちの方がつらいにきまっている。
写真は数年前の冬に撮ったヤツだ。正月に帰省した時のものだろう。本当は閉店前に一度行きたかったのだが、内装の取り壊しなど忙しそうだったので控えた。傾きかけのオンボロビルとはいえ、店子だったので現状回復して返さなければならない。
転勤族だったボクにとって、唯一動かなかった「ふるさと」はこうして消滅した。今でも実感は湧かない。きっと今後も訪れないと思う。本当に泣いてしまうから。

*1:じぃちゃんの名前が善次郎だったから。じぃちゃんは仕入れを担当。夜は店の奥でゴロゴロとしながら本を読んでいた。