二人のエンジニアが奏でる

さて、昨日の続き。
その仕事の休憩時間にレコーディング・エンジニアのM氏とベーゼンドルファー専属の調律師の方が、シフのピアノのチューニングについて話をされていました。
シフ*1のチューニングがここ最近変わっているのではないか、以前のトロンと甘く軟らかいサウンドから比べるとかなり硬質にセッティングしているのでは、好みが変わったのだろうか、時代の要請なのだろうか、といった事をウンウン頷きながら楽しそうに詮索していました。*2
ピアノによる演奏やそのレコーディングをF1のレースに例えるなら、ピアニストはドライバー、彼らはメカニックです。F1マシンのエンジン音をちょいと聞くだけで、重ねるラップタイムを一眺めするだけで、サスペンションと電気系統にある問題を見抜いてしまうエンジニアのように、音楽の問題をテクニカルな所から解決していく仕事です。
一般にレコーディング・エンジニアや調律師がどのような仕事をしているのかはあまり知られていません。レコーディング・エンジニアは演奏の現場やスタジオにマイクなどを設置して録音機材のRECボタンを押す人、調律師はピアノを平均律に調整する人、くらいの認識があればまだ上等で、何をするのか想像だに出来ない人が殆どでしょう。
レコーディング・エンジニアはアーティストやプロデューサーと相談しながら録音による芸術作品を造り上げていく非常にレベルの高い技術者です。技術的な知識や経験は勿論のこと、音楽の知識や理解、時にはアーティストやプロデューサーを納得させるだけの高い感性をもって音楽の流れやバランスをサゼスチョンし、アーティストの音を刻みます。そして重ねたテイクを聴衆が満足して再生できるレベルの作品にブラッシュアップするのです。彼の耳で、アーティストの音素材は如何様にも化けます。いわばカメラマンのような仕事です。
調律師という仕事には主に三種類の仕事があって、ひとつは調律、もうひとつは整音、そしてオーバーホールです。調律は一般にいうところのチューニングで、整音はチューニングをした上でピアノ全体の音の鳴りムラなどのバランスを整えること、オーバーホールはアクション部分など含む楽器全体の整備です。これを調律師はピアノの置かれている場所や用途に応じて行うのですが、場合よってはピアニストの要望に応じてアクション部分の反応度合いを微妙に調整したり、演奏する楽曲によって独自の調整をしたりします。
また、レコーディングなどでは、例えば高音域を酷使する曲の場合はその部分がぶれないようにタイトに調整し、次の曲に入る前にもう一度その部分を全体のバランスをみて戻す、なんて曲毎の作業も行います。リサイタルではそういった作業がいちいちが出来ませんから、全体の流れを見ながら調整します。まさにF1のメカニックそのものです。だからピアニストにとって、どの調律師と組むか、は演奏活動に関わる大事なファクターです。
そういった深い知識と経験と感性を持ったエンジニア同士の会話はなんとも味わい深く、興味深く、いつまでも聞いていたいもうひとつの《音楽》でありました。

*1:Andras Schiff(アンドラーシュ・シフ)ハンガリー出身の著名なピアニスト。

*2:ボクはシフの演奏は古いバルトークのものしか持ってないので何とも判断出来ないんですが