お喋りピアノ

少し前の話ですが、とある仕事でピアノの演奏を聴いたのです。演奏家は以前もお仕事をご一緒させていただいた実力派。そしていつも通り、ホールの客席ではなく、別室のモニタルームで聴いていたのです。ところがピアノの音色がいつもと違う。素朴だけど暖かみがあるというか。そしてその違いはバッハの演奏が始まった時に決定的になりました。ピアノが突然フォルテピアノ*1の様な音色で軽やかに鳴りはじめたのです。そこに立ち現れた音楽は、普通はピリオド楽器でしか聴くことが出来ないと思っていたバッハ! 耳を疑いました。
その後すぐスタッフの方に、ピアノ自体がいつもと違うことを告げられました。
それはその仕事でいつも使っているホール付きのスタインウェイではなく、今回特別に持ち込んだベーゼンドルファーだというのです。演奏家の方がとても優れた技量と音楽性の持ち主とはいえ、ピアノが違うだけでこうも違うのかと大変驚きました。
その日からその音が耳から離れません。「何故モダン楽器なのにフォルテピアノの様な音色が出るのだ?」悶々とした挙げ句、知り合いの二人のピアニストの方々に質問してみました。
残念ながらスタインウェイとベーゼンドルファーの楽器の構造上の違いはわかりませんでしたが、興味深い見解を得ました。二人は示し合わせたようなことを言うのです。
《ベーゼンはお喋りしている感じ》
音が大きく伸びやかで艶やかなスタインウェイ。
対して暖かみがあり素朴で繊細なベーゼンドルファー。
それを一人は『コロコロと軽やかにおしゃべりするんです。』と言い、一人は『描くというよりは喋るような音楽と楽器』と評しました。
楽器そのものと調律師のセッティングが音色を左右するピアノは、演奏家の口腔を発音システムに用い身体も共鳴させる管楽器と違い、その音色を演奏家に依存する度合いが極端に少ないのです。
それだけにピアニストは楽器と音色に対して対話的というか少し客観的な見方をするのだと思います。
ベーゼンドルファーは《お喋りをする》。だから二人ともバッハやモーツァルトなどを演奏すると楽しい、とも。
興味は尽きませんが、ベーゼンドルファーの音色の秘密に意外な方向から近付くことが出来ました。

*1:現在のピアノの前身。詳しくはウィキペディアをご参照ください。ハンマークラヴィーアともいいます。