リアルな表現とは(3)

さてたまには、はてなダイアリーらしいエントリを。
ネット上で既に話題になっているのでご存知の方も多いと思われるが、スタジオジブリが発行している雑誌「熱風」2010年7月号は、iPadが特集されており、宮崎駿さんへのインタビューを元にした記事「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」が掲載されているんだけど*1、iPadを嫌悪すべきマスターベーションの道具として宮崎さんが揶揄したクダリが過激な表現であるためか、その部分のみがtweetやblogなどでクローズアップされている。
しかし、比較的よく考察されている佐々木康彦さんのエントリやその引用をよく読むと、最終的に批判されているのは道具の方ではなくて使う側である。
この雑誌はスタジオジブリが発行しているのだから、インタビュアーもスタジオジブリと何かしら関係がある人である。つまり宮崎さんはジブリの人、とりわけアニメーターたちに向けて言っているのだと捉えるとどうだろう。以下本文引用。

資料探しの道具として使いこなせば良いのでは?・・・という質問を受けて〜
 あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。
 一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
 あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。

先日のボクのエントリのエピソードからしても宮崎さんの見解は一貫している。それは実体験がすっぽ抜けることにより表現者としての力が衰えてしまうことへの危惧である。豊かなテクノロジの最先端の産物であるiPadを手に入れることにより、実体験や想像力(創造力)を手にしたと、本来は表現の送り手であるべき人たちが勘違いしてしまうことへの嫌悪なのだ。作り手が、リアルとフェイクが入れ替わっていても気がつかなくなることへの畏れだ。つまり宮崎さんは、iPadの実力(破壊力)を認めた上での見解なのである。
表現者(生産者)にとって、道具は使うべきものであって使われるものではない〜だから宮崎さんは敢えて「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」という。どこまで行っても彼は作り手であり、職人肌の表現者であり、ファンタジーの中でリアルを語る人だ。

*1:残念ながらボクが指定の書店に行ったときには既に配布が完了しており、現物を手に入れ損ねた。