リアルな表現とは(2)

思い出したことがある。ずいぶん前に、元徳間書店勤務で、「となりのトトロ」の制作にも関わった編集者とお仕事をご一緒した時期があって、こんなことを話してくれた。
「・・・そのときミヤさん(宮崎駿さんのこと)がさ、近頃のアニメーターは《止め絵*1》は抜群に上手いし、《落ち葉がヒラヒラと舞い散る》様とかは凄くリアルに動かせるのにさ、《もの凄く重いものを持ち上げる時の下半身の動き》とか《腹ぺこの人が無心に食べ物にがっつく》とか、そういうのがチットも描けないって嘆くんだ。それで結局ミヤさんが描き直したパートも沢山あるって。それはね、今の若い人が物質的な苦労をしていないから*2、例えばとてつもなく重いものを持ち上げたり、どうしようもなく腹ぺこだったりした経験をしたこともなければ、そういう人が周りにいて、それをよ〜く観察したこともないから、身体感覚そのものとして実感出来なてない、だからそういう表現が描けないって言うんだよ。」
宮崎さんの作品で描く人の動き、とりわけ上記のような《もの凄く重いものを持ち上げる》《腹ぺこで食べ物にがっつく》表現などは皆さんも「未来少年コナン」や「天空の城ラピュタ」など挙げるまでもなく記憶が多々あると思うが、抜群に上手い。しかし、お気づきの通り、その動きはおよそ物理的な現象とはかけ離れているものも多い。
虚実な表現方法なのに「実体験がない」ことを嘆くのは何故か?
表現というのは、あるものごとを相手により効果的に伝えるために、実際とは違う見せ方をすることがある。主観的な実体験とその時起こる客観的な現象には開きがあるのだ。つまり《重い》とか《腹ぺこ》とかいうのは全く主観的な体験であり、《荷物が持ち『上がる』》とか《食べ物が摂取『されている』》という客観的な物理的現象とは必ずしも直結しないのだ。
つまり、まず主観的な体験があり、次にそれに対する客観的な観察があって初めて、その主観を他人にも判るリアル(現実感や臨場感)として見せるための試行錯誤する想像力が働き、表現となって創造されるのだ*3
宮崎さんが嘆くのは最初の身体的な実体験の部分がすっぽ抜けることにより、アニメーターの想像力が欠如していっていることなのだ。
とはいっても何でもかんでも実体験がなければ表現出来ないわけではない。宮崎さんだって実際、ホウキに乗って空を飛んだり、戦車の砲手を務めたり、得体の知れない森に迷い込んだことがある訳ではないだろう。ただアニメーターとして豊かな表現をするための助けとなる原体験をどのくらいしてきたか、ということだと思う。
何でこんなことを書くかというのはまた明日。

*1:アニメーションの技法。その言葉通り動かない絵のこと。決めどころの場面で使用されます。オープニングやエンディングの映像では丁寧に描き込んだ止め絵を、パンしたり寄ったり引いたりして使用することもあります。また、ポスターや書籍、パッケージのために描かれた〈所謂〉アニメタッチのイラストをさす場合もあります。

*2:この編集者さんも宮崎さんも太平洋戦争中の生まれですから

*3:だからといって、大げさな動きをすれば何でも伝わるわけではないですよ。例えば《すごく腹ぺこなのを他人に悟られないようにしながら食べている》という表現を求められることもあるんですから