素敵なゴミ拾い

emixがi君から聞いた噺。

i君が愛知県に住んでいた小学生の頃のこと。彼はその頃から猛烈な巨人ファンだったけど、お察しの通り周りの殆どは中日ファン。次が阪神ファン、広島もチョイチョイ、巨人ファンは少数派という環境。
当時の担任の先生は中日の大大大ファンで、当然クラスはいつも野球の話題で盛り上がる(昔はどこもそうでしたね)。
で、中日が巨人にボコスコに負けて一夜明けたある日、帰りのホームルームで先生はこう言った。
「は〜い。これで今日は終わりなんだけど最後に各自ゴミ拾いをして帰るよーに。中日ファンは1つ、阪神ファンは2つ、広島は3つ、巨人ファンは10個!!」 クラス全員「エ〜〜〜〜ッ!!」

・・・emixは聞いた。「でキミは何個拾ったの?」
i君『トーゼン10個拾ってやったさ!(笑)』
 
ざっと25年くらい前の話だと思うけど、ここには先生と生徒の信頼関係と遊びの要素が詰まってて、とても愉快なエピソードだ。大人は子供に無邪気さと社会の理不尽さと逃げ道(つまりゴミ拾いなんてテキトーでいいのだ)をさりげなく教え、子供は適当に逃げたり、逆にカタクナに言いつけを聞く事によって大人をやりこめるという逆転の痛快さを味わう。しかも教室は“ある程度”片付く。
遊びというのは勝ち負けが絶えず回転するから面白いのだ。回転するということは〈回る余裕〉があるということだ。どちらかが圧倒的に優位に立つのを目的にするならそれは戦争だ。
遊びのルールは信頼関係で成り立つ。だから両者の都合でいくらでも変わるし、そこが〈回る余裕〉の部分だ。遊びのルールを規則で決めたらそれは裁判なのだ。
遊びとは勤勉の対義語ではない。アイデアに満ちた仕事や研究や発明は世の中を明るくする。そういった仕業の中には絶えず遊びの要素が入っている。遊びの要素もアイデアもなく日々に追われる姿は勤勉でなく刑罰である。
現在の学校の現場で教師が先のエピソードのような発言をしようものなら、どういう惨劇が教師に待ち受けているか、賢明な読者諸君なら想像がつくであろう(笑)。
2012年の現在、日本の教室だけでなく社会からおそらく消えてしまった光景。信頼感とユーモアの結合した人間関係を、何処でボクたち日本人は忘れてしまったんだろう。