《触れる》


平河町ミュージックス低音デュオ松平敬:声/橋本晋哉:テューバ、セルパン)のコンサートを聴きに行って参りました。
なんとも素っ気ないユニット名ですが、全く油断のならない二人です。松平さんも橋本さんも派手な出で立ちではありませんし、飄々としているので一見スルーしてしまいそうですが、松平さんは自分の声をひたすら多重録音する手法で古今東西の無伴奏合唱のアルバム「MONO=POLI」(リンク先でダイジェストを聴くことが出来ます)を制作し、2010年度の文化庁芸術祭のレコード部門優秀賞を受賞してしまった強者。橋本さんは古楽奏法から特殊奏法まで何でも吹きこなしてしまう日本が世界に誇る「テューバの怪人」、東京オペラシティの「B→C」「コンポージアム2009」での登場で強烈な印象を持たれている方も多いと思います。
そんな二人が普段は高級家具のギャラリーとして使用されているモダンな空間でコンサートを開くというのですからタノシミもヒトシオです。
曲は「セイキロスの墓碑銘」という世界最古の現存完全楽譜が残っている墓碑に刻まれた楽曲から、グレゴリオ聖歌、このデュオを組むきっかけとなった湯浅譲二さんの「天気予報所見(1983)」、はては昨年お二人によって初演された山根明季子さんの「水玉コレクションNo.12(2011)」まで、一筋縄ではいかない2200年分の音楽が演奏されました。
さて、彼らの音楽空間に浸っていると、現代における芸術表現というのはどの地点から出発しても高次においては全ての要素が融合した気分の雲というか、人々のパルスが交叉する精神的な《実体の伴わない》胎内に帰結している気がします。しかもその胎内にはいつも違和感が内蔵されているのです。しかし、現代芸術がその違和感を描くものだと書くとそれは違うのです。また、その違和感を飼い馴らしてしまうことが現代芸術における表現でもありません。胎内とはいえ安堵の地ではありません。いずれ吐き出され、未知の世界に放り出される温かくも不安を抱えた場所です。その兆しとしての違和感。だとすると現代芸術の表現とはそこに《触れる》行為です。生きる者にとって「死」ほど違和感を感じる状態はありません。そして死に触れるときこそ「生きている」という実感を感じずにはいられません。墓碑、聖歌、沼地、毒・・・今回のプログラムにも死の臭いを感じさせるテーマの演目が並びます。しかし、その表現によって立ち現れるのは「今を生きている」という鑑賞者の自分そのものです。
彼らが本日演奏した楽曲の中には身体的パフォーマンスを伴う作品も数曲ありましたが、そう謳っていなくても舞踏や演劇で味わう気分を得られる楽曲と演奏であったり、絵画やグラフィックデザインであるといか言いようのない音楽もありました。そして、そこかしこに装置された違和感に《触れる》仕掛けが施され、さまざまな感情の揺れに導かれます。
最近ずっと考えていることですが、音楽(あるいは芸術・芸能・趣味)をノスタルジーとカタルシスのみで鑑賞や表現していると、人格としての老いが早まる気がします。結果が予定調和(大団円)であればあるほど、退化していくような印象です。
低音デュオというユニットは、高度な手法でそこに《触れ》、鑑賞するする我々に予定調和ではない様々な残像を与えてくれます。表現というものをつくづく考えることが出来る有り難い場であります。
さて、チケットに「ドリンク付き」と書いてあったのでハテ?と思っていると、終演後にワインが出て来て聴きにきた他のお客さんや演奏者や作曲者と談笑出来る軽いレセプション時間が用意されていました。なんとも粋な計らい!