GHOST IN THE SHELL

(観てない人は解りにくい話題ですが、すみません)改めて「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」を観た。アニメーションとしての技術力や画力・描写力は1995年公開版も2008年リニューアル版も共に優れており、観念上でもとても面白い映画ではあるが、生命において「自分」を「自分」と意識・認識するのは果たして完結した脳髄におけるパスル活動・記憶やパッケージされたプログラム(またはその断片)・メモリという《部分》なのだろうか、という最近の個人的な疑問にぶつかった。臓器移植された人が移植された臓器の元の持ち主の嗜好に近付くという話や、ファントムペインの話を鑑みるに、どうも生命というのは身体《全体》にこそ「自分」が宿るのではないか、痛みや不快感みたいな一見「自分」にとって不都合な信号こそがその「自分」の位置やスケール(範囲)を示しているのであり、その行き着く先までがつまるところの「自分」なのではないか、そうでないと生殖行為や移植などで身体の異化・同化・浸食・融合などが起こることも有り得ないのではないかとさえ考えてしまう。
そういう意味で殆どの身体が擬態化(サイボーグ化)されている主役の草磲素子の四肢が砕け散っても「痛み」を伴っていない描写(任務遂行のために痛覚などの搭載は邪魔なのであろう)、実は彼女だけでなく、この映画に出てくる人物たちの殆どに身体的な痛みを感じさせる描写を見出しにくい(死ぬときは即死だったり)ことにものすごく違和感を感じるし、『人形遣い』が劇中で語った生命への憧れ(つまりは身体の異化・同化・浸食・融合を求めている)が何故実質の身体を伴わない素子に融合に向かうのか、という矛盾も感じるのだ。最も、それが監督である押井守さんの狙いなのかもしれないけど。

GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊  [Blu-ray]

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