ミュライユとiPad

コンポージアム2010トリスタン・ミュライユの個展演奏会を聴きにオペラシティへ。
実際、ミュライユの音楽は今現在とりたてて新しい語法ではない。日本初演とはいえ、例えば《ゴンドワナ》は30年前の作品だし、その中で使用される鐘を音響解析してオーケストラの楽器に置き換えていく手法などは、さらに20年遡った1959年に黛敏郎が《涅槃交響曲》の中で『カンパノロジー・エフェクト』として聴かせてみせた、それの響きだ*1。しかし、彼がそれによって表現してみせた世界観は全く黛のそれとは異なるものであり、あくまで『ミュライユの個展』として『展示された音楽』を鑑賞する限り、美術館の順路をコツコツと歩いて制作年代を追うように聴いた彼の音楽表現は、実に興味深くボクの頭の中を巡ったのだ。
奇しくもiPad日本発売の前夜、つまりアラン・ケイが1972年に提唱したパーソナル・コンピュータの一つの到達点であるdynabook構想の具現化と、実質上の日本の電子出版元年の如く興奮気味な世論が渦巻く中、さしずめデバイスのブレークスルーが世の中の価値観を全く別物に変えてしまうのではないか(パラダイムシフトを招く)という期待感と畏れが渦巻く夜に、ミュライユの音楽は価値観の境界線の曖昧さをボクに突き付けた。
最初は2台のオンド・マルトノによる《マッハ2.5(1971)》で電子楽器によるノイズと楽音の境界線を、オーケストラとオンド・マルトノによる《空間の流れ(1979)》で電子楽器とオーケストラとの境界線を、音響解析によるオーケストラのためのスペクトル音楽《ゴンドワナ(1980)》でリズムとうねりと抑揚とモチーフの境界線を、大編成オーケストラとエレクトロニクスの融合による《影の大地(2003-04)》でそれら全てを今一度再構築して伝統音楽「の様なもの」の中に放り込んだ境界線「の様なもの」を・・・
そもそも人間の価値観というのは集団であれ個人であれ絶えず揺れ動く。とても乱暴に言えば、それは初夏の夜に家の外の田圃のカエルの大合唱が、日によって耳障りなノイズだったり、安堵の響きだったり、聴く者の諸条件によって絶えず揺れ動くような事だ。
では、その潮の変わり目はどこか? そもそもいつ誰がいかように判断するのか?
ミュライユの音楽は全ての境界線を一度境目が見えないほど繋げ・溶かし・変容させ、判断を聴衆に委ねる。自分が今聴いている音はどこからが〜うねりと重なりのランダムで非連続な繋がりは〜ノイズなのか〜それとも〜伝統音楽でいうところの旋律・律動・和声なのか。さらに近作の《影の大地》で、かつて人々が伝統音楽の中で体験した「の様なもの」に対する安堵感を時々浮かび上がらせることでさらに「判断できないもの」への不安の対局を引き出す。30年前の作品である《ゴンドワナ》のラストが光の中に消えて行くかのような終わりともなんとも言いがたい感じだったのに対して、《影の大地》ではオーケストラの強奏による「終止のようなもの」で終わる。しかし、30年の彼の旅をこの個展で追体験したものには終止は終止でさえあるか判らないという根源的な体験を味わう。
iPadの話に戻る。
ボクはあるきっかけで、今月の頭に前もってiPadに触れる機会を得ていた。で本日、事務所にスタッフのiPadが届けられた。この時点で購入した本人含め、ボク以外、事務所では誰もそれを体験したことはない。やがてiPadを囲んで人だかりが出来、ヤンヤと賑やかになった。前もって知ってたボクは「こういうアプリもあるよ」とか「こういう風に動くんだよ」みたいな話を茶々と入れながら皆で楽しんだ。ボクらはブックデザイナーなので、早速自分たちの作った本をPDF化して、iPadで表示させながら他の電子書籍と比較してみたり。ここにすでに体験してある程度の価値判断をしていたボクと、知らずに期待感に満ちて初めて触れたみんなの体験が解け合い、パーソナルではない価値のグラデーションが生まれた。みんなの反応はボクの価値判断にもフィードバックされるからだ。
では、事務所のみんなが本物のiPadを知らなかったさっきまでと、知った今の間に断絶的な価値基準の飛びがあるかというとそうではない。テクノロジとしてはiPhoneで既に体験していたし、媒体としての展望は巷の喧噪などを通してボクたちブックデザイナーは常に期待と不安の間を常に行き来しているからだ。言わばそのグラデーションの中に実物のiPadが逆に放り込まれた感じ。
ボクの中で昨晩のミュライユの体験がその感を一層強くした。
もう一度言うがミュライユ自体が取り立てて新しいとは思わないが、このタイミングで東京の夜に立ち現れたことは、少なくともボクにとって、とても意義深いと思った。

*1:両者の間に関係性はないらしいので、そこをトヤカク言っててる訳ではない