嬰ハ短調な思い出

外山雄三さん指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の第808回サントリー定期を聴きに。外山さん自作のチェロ協奏曲作品61を宮田大さんの独奏、マーラーの交響曲第五番嬰ハ短調という二本立てである。
チェロ協奏曲は元々ロストロポーヴィチによる委嘱作であり、海外初演を意識したためか、日本古来の弦楽器用法や節回しが終始スタイルの下地にある。外山さんの眼差しは「第一級のクオリティで欧米を真似るのではなく、第一級のクオリティでローカライズさせることこそがグローバルに日本が通用する条件」という所に早くから向いており、実践されている照明でもある。今回は宮田さんによる独奏だったが、ソリスト自体も日本人であれば、そのカラーはさらに深化(真価・進化)するように思えた。そのくらい宮田さんの演奏はしっくりくる名演だったと思う。
マーラーはガッツリした解釈、鳴りのよい金管(ホルンとラッパは圧巻!)、なおかつ各ラインを浮き立たせた通りのよい快演だった。巨大な交響曲はやはりこうして素敵なホールのシートに座って聴くに限る。

・・・ボクは音楽をノスタルジーとカタルシスで語るのが大嫌いなのだが、この曲に関してはちょっと思い入れがある。
高校生の頃の話である。音楽専科のある高校に通っている友人と二人で高松(四国ね!)のヤマハへ行ったある日、CDコーナーでインバル指揮のマーラー五番が試聴出来るようになっていた。とかく背伸びをしがちな年頃だ。当時フィリップジョーンズやカナディアンブラス、エンパイアブラスなどのブラスアンサンブルかぶれだったボクたちは、何かよう判らんけど最近よく聞く名前の作曲家だし(当時、確かCMで大地の歌かなんかが使われていたと思う)聴いてみようということになり、二人でヘッドホンの片方ずつを分けあって再生ボタンを押した。トランペット1本による鋭いファンファーレの後の強奏によるトゥッティ! その後の突然切ない弦楽合奏の歩み・・・
高校生を奮い立たせるには十分過ぎるというか、もう、無修正のエロ本を突然目の前に開かれたぐらいの衝撃。その日から二人はマーラーにウツツを抜かすバカ高校生になった。
そして1時間以上かかるこの曲を聴けるようにならなければオトナとは言えないし、そのくらいの蘊蓄がないと女の子にもモテないと思った。恐ろしく間違った勘違いであるが、この年頃はこういう熱に魘されるものだ。
その後、ちょっと思いを寄せていた女の子の家に遊びにいった時、お母様(大のクラシックファン)に「あなた、最近なに聴いてるの?」と聞かれて勝ち誇ったように「マーラーですっ!!」と息巻き、「フッ・・若いわね・・・、オトナはブラームスとかモーツァルトを聴くのよ」と返された。当時は全く納得出来なかった。
「なんだ! そんなカビの生えた音楽わっ。マーラーこそが知性と雄大さを兼ね備えた最上の音響なのであーるっっ」みたいな・・・青春パンパカバカバカである。
マーラーの五番は特に、迷い悩み、ウジウジしたり、悶々したり、夢見たりしていたかと思うと突然、決然と高らかに演説してみては・・・落ち込む、みたいな、若い男なら共感出来る要素がテンコモリの音楽である。少なくとも20代のウチには通っておかねばならぬ。
そんなことも思い浮かべながらサントリーのシートに座っていると、バカ高校生だった頃の恥ずかしい思い出が走馬灯のように頭上を巡り、不思議と楽しい気分になる。
もっともそういうアホな青春時代を通り抜けた後で聴くマーラーは、すでに大指揮者としての名声にあったものの、いつもどこか死を畏れ、人恋しく、神経衰弱気味なのに、誇大に振る舞わざるを得ない、一人の男性の苦悶を書いているように思われ、切なくてならない。
外山さんは「今もっとも興味のある音楽家」と仰っている。自作自演をされ、大指揮者であるという共通点が、確かに二人にはある。明らかに外山さんとマーラーとは別の人格の持ち主であるが、親友を見るような心持ちなのではないか、そうとも思う。