メビウスの輪

東京フィルハーモニー交響楽団の第67回東京オペラシティ定期シリーズを聴きに行く。プログラムは松村禎三 《管弦楽のための「前奏曲」》/武満 徹《遠い呼び声の彼方へ!》/チャイコフスキー《交響曲第5番 ホ短調 作品64》。お目当ては無論、松村禎三&武満 徹である。
知人の音楽家にコンテンポラリや古楽や邦楽の世界で活躍されている方が増えてきたためか、そういうジャンルの仕事依頼が増えたためか定かではないが、ここ数年心奪われる音楽はコンテンポラリ、もしくは古楽、邦楽、雅楽、読経である。
そして、これらの音楽を聴くと二つのエピソードを同時に思い出す。
ひとつはウィル・オッフェルマンズというフルート奏者が現代フルート奏法の可能性を突き詰めた先にサウンドにノイズやエアの流れの変化を含ませるという尺八の「バンブートーン」「ウィンドトーン」を見出した際、楽器のメカニズムを複雑にして微分音や音のベンディングを作り上げることより、シンプルな楽器で口や息の使い方を会得した方が断然良いと気付いたというインタビュー記事。
もうひとつは藤原道山さんと仕事をご一緒させていただいたときに、彼が尺八でフルートのように全くノイズのない澄んだトーンでやはりフルートの楽曲を軽々と吹いた後に、メリ・カリ・ムライキなどの尺八のトラディショナルなトーンをデモンストレーションして見せてくれたこと。
メビウスの輪のように音楽が時空を超えて繋がっていて、そこに身を委ねるときの心地に面白さを感じる。音に同化し弛緩したり、響きの違和感に緊張したり、たたみかけるテンポに心拍数が上がったり、終わりのないような取り留めのない音のやり取りに微睡んだり。法要などで一定のテンポで刻み続ける読経を聴いていると複雑なモアレから醸し出される音響空間に、今聴いているのは古式連綿と受け継がれてきた宗教音楽なのか、20世紀後半に書かれたミニマル・ミュージックなのか判らなくなる体験もする。
法要の読経は機会音楽であり、必要があって関係各人が招集された際に聴くものであるが、松村&武満作品をライヴで味わうのであれば、こうした演奏会に出向くほかない。
今回の村松&武満作品は共に彼らの代表作であるが、恥ずかしながら演奏を聴くのは初めてだったのだけれども、自分にとって良い馴染みの響きになりつつある。雅楽のように大気を震わせる《管弦楽のための「前奏曲」》、ソリストも含めて全てのオーケストラが同族楽器のように溶け込み広がっていく《遠い呼び声の彼方へ!》。濃茶をゆっくり頂くように味わった。