KAFKA ON THE SHORE


海辺のカフカ》(村上春樹原作/フランク・ギャラティ台本/平塚隼介翻訳/蜷川幸雄演出)をさいたま芸術劇場にて観劇しました。これから先に観劇される方のためにも筋立てや演出内容の具体に関しては書きませんのでご安心を(笑)。
大変素晴らしい体験でした。パラレルで幻惑される場面転換、無垢と官能を行き来しながら融合していく高揚感、読む(観る)者への問いかけという残像。村上春樹さんが小説で描いた世界観を見事に表現した蜷川さんとカンパニーの皆さんの芸術性と探究心に賞賛を送ります。
さて、ここ数ヶ月は「声」を伴う公演に比較的多く出会いました。演奏会形式の大規模なオペラ、児童合唱を伴うバリトン歌手の公演、声楽と器楽によるデュオ、演劇・・・演者から発せられた声(台詞や歌)が観衆・聴衆にイメージを与えながら空間を満たしていく様は、エディトリアルデザインととても似ています。台詞や歌は素のテキストに声色、音の高低、スピードの緩急、音量の大小、フレーズの取り方などを纏わせ、演者が時間軸を制御することで観衆・聴衆に表現をしています。一方、エディトリアルデザインも素のテキストにフォントの違い、色の違い、字間行間のピッチの変化、文字の大小、ページめくりのタイミングんなどを纏わせて表現するので大変似通っているのですが、時間軸は演者ではなくて読者に託されている点が大きく異なります。
そしてもう一つ異なるのが身体性に対する捉え方です。エディトリアルデザインで制作者が自らの身体性を意識することは殆どありません。作品が完成すると自らの手を離れてしまうからです。一方声を使って表現をする方は身体の使い方を大変重用視されます。彼らは作品と身体が切っても切れない状態に置かれるからです。
さて元に戻って《海辺のカフカ》ですが、これは元は小説ですからエディトリアルの賜物です。一方今回鑑賞したのは舞台作品。同じテクストを扱う表現でも書物と演劇では「時間軸」「身体性」における考え方が異なります。一般に小説や漫画の舞台化・映像化、またその逆が難しいのはそういう訳なのです。しかしながら、それを越えてもなおこの作品が《海辺のカフカ》そのものたる所以こそが村上春樹さんという作家が紡ぎ出す個性であり、表現の軸として強い名作、ということなのだと思います。