幻の全国大会

滅多に吹奏楽コンクールのエピソードを書かないボクですが、思うところがありまして、今日だけバリバリに書かせて頂きます。
ボクの母部である埼玉大学吹奏楽部が第55回全日本吹奏楽コンクールにおきまして銀賞を頂いたことは、新聞の報道などによりご存知な方もいらっしゃるかと思います。各方面でいろいろな評価をされているとは思いますが、前回出場した2003年を上回る成績を残せたことは、指揮・指導をしてくれている小峰くんを始め、長年の部員たちの努力の賜物であることだけは間違いないことであり、それはそれで評価すべきことだと思います。また、彼らを支えてくれた方々のご尽力と声援におかれましては、OBとしましても感謝の念でいっぱいです。
ご挨拶はこのくらいにしまして・・・
ところで今回を含め、埼玉大学吹奏楽部は4回の全国大会を経験しておりますが、県大会において最大のライバルである全国クラスの名門・文教大学と相見えて地区大会の切符を勝ち取ったのは、最初の全国出場である1990年*1のみです。しかし、次の出場を決めた1999年の間に、あわや出場かと目された幻の年があったことは、一部の関係者を除いて今ではあまり知られていない話です。
それは1995年の初夏、今はなきバンド・ピープル編集部に仕事ついでに久しぶりに立ち寄った日のことです。
「さっき瀬尾さん来てたよ」
冷蔵庫から勝手にお茶を出して飲んでいたボクに、編集長の小太郎さんが言いました。瀬尾さんとは、文教大学OBで編曲家・吹奏楽指導者としても名高い瀬尾宗利氏のことです。彼は文教大学の指揮者である佐川聖二氏の片腕として指導のサポートをしていました。
「なんか、弱音吐いてたよ。今年は文教ダメかもしんない。埼大ウマすぎるって。」
一瞬ボクは耳を疑いましたが、ニンマリともしました。この年の埼玉大学の執行部は、当時の常任指揮者である近藤久敦氏が手塩にかけて育てた優秀なプレイヤーが多く生まれた代であり、前年のコンクールでの失敗を分析し早々に対策に取りかかっていました。サポート的な指導者として迎えていた保母雅彦氏*2との連携も噛み合い、サマーコンサートの時点で例年にないクオリティーで課題曲・自由曲が仕上がっていました。瀬尾さんは実際サマーコンサートを聴きに来たのか、誰かが影録音していたテープを聴いたのかしたのでしょう。ようやく全国区として安定してきた文教大学とはいえ、これは脅威でした。この年の埼玉大学は、当時のアンサンブル・リベルテを率いて色彩感のあるサウンドで日本中を唸らせていた近藤久敦氏が、試行錯誤の末に満を持して放った矢でありました。
結果、見事な完成度でホルジンガーの「春になって、王たちが戦いに出るに及んで・・・」を演奏した埼玉大学に対し、本来近藤氏の十八番であったアーノルドの序曲「ピータールー」を瀬尾氏のコーラス付きアレンジで演奏する*3というウルトラCをやってのけた文教大学に軍配は上がり、文教大学は全国まで勝ち進みました。しかし、県大会での成績は5点差まで詰め寄る接戦となっていたのでした。ここまでくると各審査員が最後の1点をどちらにつけるか、というのはもう好みの差でしかありません。厳格に構築された埼玉大学のサウンドより、明るく伸びやかな文教のサウンドが選ばれたのは、時代の流れだったのでしょう。
以降、文教大学はその実力をさらに確実なものとし、不動の地位を吹奏楽コンクールにおいて勝ち得ることになります。次に埼玉大学が全国の舞台に上がるのは、文教大学が3年連続出場で招待演奏枠に入った1999年、奇しくも近藤&埼大コンビによる最後のコンクールとなりました。その後も残念ながら王者・文教の牙城を崩せず、埼玉大学は混迷の時期を経て、若い指導者・小峰章裕くんと学生たちによる苦悩と再チャレンジの日々が始まりました。少しずつですが、成果は見えて来ています。現に文教が3年連続出場でお休みの年に出ている全国大会*4での成績は上がっているのですから、これは良い傾向です。
歴史に「たら・れば」はありません。しかし、1995年の埼玉大学吹奏楽部が見せてくれた熱い日々は、埋もれさせるには少し惜しいエピソードでしたので、今日敢えて書くことにしました。多分もうコンクールのことは書かないと思います。
ものすごい長文になりました。写真もないのでどうしようもない日記ですが、こんな日もあります。

*1:ボクが入学した年です。もちろん補欠です。っても欠けることすらなかったので運搬係でしたが。

*2:吹奏楽指導者でもある彼は埼玉大学のOBです。文教における瀬尾さんのような位置だったわけです

*3:これはこれで別の事件として遺恨を残すのですが・・・

*4:これだって、地区大会を抜けなければならないのですから、そんなに簡単ではありません。