風姿花伝に向かう


能楽師の長島茂さんにお誘いを受けまして十四世喜多六平太記念能楽堂で行われた喜多流職分会平成二十五年三月自主公演能を鑑賞してきました。
実は能や狂言を能楽堂でキチンと鑑賞するのは初めてでした。なので全てのマナーにおいて初心者。開場前〜開演前や休憩中の過ごし方すらわかりません。
例えば十四世喜多六平太記念能楽堂には二階にラウンジがあり、飲食はそこでしか出来ないのですが、売店には食べ物は一切売っておらず、飲み物も自販機のみ。開場(見所入場といいます)が11時から、開演が正午、終わるのが17時。間に20分と10分の休憩があるのですが、食事ってどうすんねん。ってことすらわからなかったのです(答えは簡単で皆さんお弁当をご持参されていました)。
また出演者の方々の入退場の所作と拍手のタイミングなど、全ての流儀が独特なので、散々色んな公演に行ったボクですが大変新鮮でした。また、能楽堂という「中なのに外」的空間の面白さも新鮮でした。
さて、本日の演目(曲目といいます)は能:自然居士、狂言:鬼瓦、能:西行桜、仕舞:経政、能:鉄輪、でした。開演前に曲目の解説が見所(会場)で行われたのと、パンフレットの解説文もあったのでスッと入れましたが、思ったより謡の言葉も聴き取り易く、やはり今に生きる芸術であることは間違いありません。
いや、そんなイージーな話でなく、能や狂言の表現の圧倒的で豊かな力に惹かれっぱなしの5時間でした。目に見えているのに存在しないことになっている表現、目に見えないのに目の前にあるという表現、微動だにせずに圧倒的なスピードを感じさせる表現、動いているのに時が止まったかの様な表現、無音の中に豊かな音楽や音響の伽藍を感じさせ、謡や地謡や囃子の演奏の大音量の中に静寂を感じさせる表現・・・
動く筈のない能面の口元がシテの顎の動きひとつで口が動いている様に見え、先程まであんなに荒々しい恨みに満ちた形相だったのが自信を失った怯えに表情に変わる。何もない舞台が小道具ひとつで京の街角に、船着き場に、桜の咲く庵に、陰陽師の祈祷所に・・・
これは音楽・舞踏・演劇・絵画・映像等々コンテンポラリの芸術家たちが常に目指している研ぎすまされた表現です。観阿弥・世阿弥という親子がいかに表現者として世界でも稀に見る大きな存在だったかが良く判ります。
今後、能と狂言に関してはお仕事でも関わっていく機会も増えそうです*1。とても楽しみです。

*1:関連の装丁はいくつか手がけさせていただいています