八月蝉い

窓の向こうに見えるマンションの階段に蝉がとまっているなと気付いた瞬間、大音声を上げて鳴きはじめた。ちょうど先日NHK-BSでファーブルの生涯を特集しており、ファーブルの蝉に関する考察が面白かった。解剖学にも長けていたファーブルは、蝉の発音体の仕組みを突き止め、蝉は元気な状態のまま針一本でその大音量を止めてしまったという。いくら虫好きの彼でも蝉の大音量に仕事が進まず頭を抱えていたというが、そこは転んでもタダでは起きない人だなぁと感心する。しかし感心したところで蝉がウルサいのは止まない。
ウルサいは「五月蝿い」と書くが、蝉に蝿というのもお互い不本意に違いない。いっそのこと「八月蝉い」にしたらどうだとtwitterで呟いたら幾人かにご賛同いただいた。しかし、改めて調べてみると、過去にもそういう発想をされた方は大勢いらっしゃって、我ながら遅咲きの発明に得意げになったことを恥じる。そしたら別の方が「やかましい」にしたらどうかと提案を頂く。「八」と「や」の音が合っているのですこぶる洒落ていてよろしい。
さて一方、蝉時雨に静けさを感じたのは松尾芭蕉である。正確には「閑さ」で「しづかさや」なのだそうだが
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
と山寺(山形市立石寺)で詠んだ。知らぬ人はいない名句である。
ホワイトノイズで聴覚が一様に覆われたかの如く蝉の声一色に染まると、夏の緑々深い境内の石と森の中にあって黙々と階段を登る心には、もはや雑念の入り様がないであろう。閑さとは観念であると思っていると、ちょうどドナルド・キーンの芭蕉論評を読んでいた作曲家の堀内貴晃さんから書中に《「句中に含まれる〈i〉音がまさに蝉時雨である」と指摘されており、句の推敲の変遷がある》とお教えいただいた。
A「山寺や石にしみつく蝉の声」→
B「さびしさや岩にしみこむ蝉の声」→
C「さびしさの岩に染み込む蝉の声」→
D「閑さや岩にしみ入(いる)蝉の声」(完成)
そこで考えた。
ノイジーな音と単純に思い浮かべれば子音の〈s〉*1または〈z〉だ。Aでは2音、B以降は5音に増えて数は確定。最終のDでは〈s〉と〈z〉を入れ替えるも数は変わらず。特に句の前半に3音を集中させて出現させ、印象付けている。
さらにリズムの要の位置に〈s〉を置く事により、ノイズを時空的に響かせることにある程度成功している。仮にCの句を4拍子に例えると、「びしさ|の・・・|・いわに|みこむ|みのこ|え・・・」と小節の頭に〈s〉が来る箇所を3つ設けて韻を踏ませているのだ。しかし芭蕉はCの時点でに至り、まだ何かが足りないと感じたのであろう。
口を横に引いて出す母音〈i〉も確かにノイジーである。芭蕉が山寺で聴いたのはおそらくニイニイゼミであるという有力説を根拠にすると、日本人にとって「ニー」「チー」「ジー」と鳴き声の表現されるこの蝉は〈i〉を核にして表現されている。するとキーン氏のこの指摘は全く正しい。
Aに含まれる〈i〉音は4音、Bは6音、Cも6音、遂にDは7音。特に完成系では中間部「岩にしみ入(i wa ni shi mi i ru)」と殆どが集中し連続する。
Dに至って選んだ言葉「閑さ」はまさに観念上の発見でもある。「込む」を「入」にしたことで〈i〉を連続させることだけでなく、子音を排したシラブルで柔らかさが増す。
最終的に〈s〉〈z〉〈i〉全てで実に17音中10音で蝉の声を発生させている*2。推敲はまさに蝉の声を求めての旅である。
shi zu ka sa ya  i wa ni shi mi i ru  se mi no ko e
この短い句にシラブルを駆使して音響をダブルミーイングさせ、イメージの世界へ誘う手法はもはや作曲であると、堀内さんと共に感心したのである。そう、そもそも歌とはそういうものだったのだ。
蝉の鳴き声を疎ましく思いながらも科学的興味を失わないファーブルと、蝉時雨に感じた観念的な「閑さ」を音響豊かな短い詩作に込めた芭蕉。只々ヤカマシイと喚いているボク自身が一番喧しく貧相な感性の持ち主であることが露呈して、益々恥ずかしくなった次第。

英文収録 おくのほそ道 (講談社学術文庫)

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完訳ファーブル昆虫記 第1期 1-5巻 全10冊セット(化粧ケース入り)

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注:言語学や文学、文法に詳しい訳ではないので、用語や用法がチグハグな点はご容赦下さいね!

*1:〈sh〉も含む

*2:うち子音と母音両方が重なるのが2音〈shi〉。いずれも先の小節の頭の音