出家

何で昔の公家や武家はすぐ出家しちゃうんだろう、坊主になった方が豪奢な暮らしが出来たのかしら、と思っていたのですが、どうやらそれだけじゃないと最近はやっと自分でも少し分かってきました。
新たな悪者を探して先に吊るし上げた方が勝ち(=正義)、みたいな論理って、まぁ、昔からある人間の問題解決の常套手段ですが、それは一時的なガス抜きに過ぎず実際は何も問題解決になっていないってことに気付くと、自身と世に失望して仏門にも入りたくなるのだと思います。
右だろうが左だろうが上だろうが下だろうが本当は人間にとっては同じ話です。一人一人生まれ落ちた場所と歩く道は違いますが、等しく世の人は「自我を肯定し他者に認めてもらいたい」という一点において同じです。生まれが云々、思想として云々、政治的に云々、なんて本当はどうでも良くて、ただただ他者に認められたい一心な筈なのですが、自分の出自と通った道が常に足枷になります。気持ちは「私を認めて欲しい」だけなのに、その足枷のために他者を認められなかったりします。この連鎖に雁字搦めになって動けなくなったとき、人はやっと原因が「私を私を」という自己にあることを悟り、その連綿こそが人の世だと気付いてドッと疲れが出るのでしょう。
現代の日本は、圧倒的な物量や他者の情報が個人に流れ込んできますから、公家や武家でなくてもストレスで雁字搦めになりますし、仏門でさえ資金運用に失敗して云々なんて問題で騒いでるくらいですから本当に大変だと思います。
ずいぶん昔、師匠に「(デザインの)個性っていうのは己の存在を出来るだけ消しても消しても〈出ちゃう〉部分を言うんだ。だから皆が認める事が出来るんだ。オレがオレがってのは個性じゃないんだ」って言われたのを思い出しました。こういう部分は昔から悟りの境地にいた人でした。