「違い」と「赦し」

人は、他者がいて初めて、その関係性の中で自己を見出すのですが(人類学の基本ね)、特に自己を見出すきっかけは「あなたとわたしは違う」という認識が生まれた瞬間です。
で、《自己と他者の「違う」の境界面を人は「どうしている・きたか?」》を精査する学問が人類学であり、この「どうしている・きたか?」の選択肢は沢山ありまして、その多様性を読み解くのがとても面白いところなのですが、最近の世相を見るに、この多様性が狭まっているところに私は危惧を憶えます。文化はいかなる形でも受容・変容する毎に新しい形が生まれます。それはフラクタルの万華鏡の様であり、新たな糸で織られる網目模様の様です。その豊穣な実りが新しい知恵であり、人を活気づけます。
ところが最近(の特に日本)は「違う」は許されない対象であり、屈服させるか、根絶やしにするか、の、どちらかに舵を切ることが多く見受けられます。拒否して関係性を断つ、という選択肢は高度情報化社会の中では難しいからか、あまり選ばれません(「違う」を認めることにもなるからでしょう)。ましてや、「違う」を認めて共存する、相手の「違う」を自分流に取り入れてみる、なんてことは『相手に敗けた』とみなされるのか、ほとんど歓迎されません。
多様性を謳っている様に見えて、自己承認欲求が肥大化しているだけ、というか。これが、友達関係・家族問題・ご近所トラブル・商品クレーム・マタニティ問題・保育園問題・チャレンジド・介護・医療・モンスターペアレンツ・いじめ・部活動・セクシャリティ・ブラック企業・企業告発・災害復興・原発問題・自治体運営・国会運営・選挙・内政問題・外交問題・戦争にまで何層にも折り重なっているのだから息苦しいのは当然です。
2000年くらい前も世界は混乱していたんでしょう。その頃に世界中で花開いた様々な宗教で盛んに云われたことは「赦し」です。とにかく赦せ、と。ええかげん赦したれや、と。お前があいつを赦してからやないとなんも始まらんやろう、と。それだけ他者を「赦す」ことはメンタル的にも大変なのだと思います。
赦すことで止まった時計は動きだす。笑いが生まれ、文化は息を吹き返す。そういうこっちゃないやろか。