「責任を取る」ということ

多くの日本人にとって「責任を取る」とは「切腹する(周囲の罪も背負って社会的に抹殺される)」とほぼ同義。なので周囲と協働して問題を解決するスキルより自分が責任を取らなくても良い様に振る舞うスキルばかりが発達する。我々一市民から為政者までこの傾向は変わらない。

自分たちを規制する方を殆ど信頼していないクセに一見従順に振る舞うのも、その方が責任を取らなくて済むからだ。同調圧力や感動ポルノなどの「見た目の正義」に乗っかっておくのも、個々が見えないモブの中に紛れていれば自分は責任を取らなくて済むからである。人々はせいぜい、王様のパレードの観衆の中にあって「だって王様裸じゃん」と叫んで皆の溜飲を下げることができれば今日のヒーローだ、くらいにしか考えておらず、裸の王様のパレードを本気で中止にして欲しいなんて考えてもない。もし自分が皆の衆目を浴びて本当に中止になれば責任を負わなければならないからだ。

逆に為政者が詭弁や剣武術数を駆使したり都合が悪くなると雲隠れするのも、世相の風向きが変わるまで凌げば、切腹だけは免れられることを知っているからだ。

問題なんて解決されなくても、自分の幸福度がどんなに低くても、多少実害を被っても、自分に責任が及ばなければそれで良い、我々日本人は、そう言う文化意識の中で今日も鬱々と暮らしている。

しかし、ここまで四方八方の問題が山積みな中で、早く「責任を取る」を「切腹」から「周囲と協働して問題を解決する」と言うマインドに転換していかなければ、全てが後ろ向きな流れの中で我々は、沈み行く幸福度と共に自滅してしまいかねない。

やはりここでも大切なのは理知な眼差しからくる「優しさ」なのだろう。