教科書考(昨日の続き)

AppleがiPadを利用した新しい電子教科書のプラットフォームを開発した旨の発表をしたという。(日経による報道内容についてはこちら
以前、原口一博さんが総務大臣だった折にも日本の教育とIT産業ヘのテコ入れとして電子教科書についての構想を発表したことは記憶に新しい。しかしこの時も経産省と文科省の足並みが乱れた。
日本の学校で使用される教科書は民間の出版社が制作し文科省が検定して認可が下りたモノを各自治体が選定して採択される。新指導要領に沿った各社の編集方針決定に1年、制作に1年、検定見本提出から認可までが1年、自治体採択から使用開始までが1年、実に4年をかけて子供たちの手に届く。
これは第二次世界大戦後の政策として先日のエントリにもある「サクラ読本」のような国定教科書が行き過ぎた軍国主義などを扇動するリスクを避け、思想や言論の自由を尊重する目的もあるのである。その一方で政府の方針や世の中の移り変わりに対応するには非常にまどろっこしいシステムでもある。ここに文科省と総務省や経産省との思惑の違いがある。
また、教科書出版社に対する負担の増大がある。例えば拡大教科書という視野にハンディのある児童生徒に対応するための専用教科書の制作の多くは、以前はボランティアによってまかなわれていた事業だが、近年は出版社自らの主導で制作する方針が文科省により推奨されている。出版社は無理に制作する必要もないのであるが、自治体の採択条件の不利にならないよう、殆どの出版社が制作している。各県での採択部数がゼロである可能性がある出版物のために本紙に迫る制作コストをかけねばならなくなるリスクは民間出版社としては厳しい現実であろう。これに加えて電子教科書まで乗っかってくるのだから頭の痛い話であろう。とはいえ小中学校の教科書なんて採択されれば大部数を国が買い上げてくれるのだから儲かるのではないかと思われるかもしれないが、残念ながら教科書の値段を決めるのは出版社ではなく、買い上げる方の国である。
さらに一口に教科書と言っても教科による見せ方の事情は大きく異なるし、最近は紙の教科書でさえビジュアルを充実させる傾向により、児童生徒が自分自身の目で実物を観察したり文章や楽譜のみから想像力を働かせたりする力が低下するリスクを懸念する声がある。
さらにさらに現場の教える側のスキルが追いつかない現状がある。管理すべきことが膨大に増えた教師は、会議に次ぐ会議、研修に次ぐ研修で、明日の授業の指導案もじっくり考えられない多忙な日々を過ごしながら、生徒指導や保護者対応に追われている。さらに学校という閉じた環境下では教員や生徒が始終顔を直に付き合わせて生活するため、コンピューター・ネットワークなどを活用したITスキルに対する依存が低く、さらに生活指導の観点から、児童生徒のネットワークなどの活用にあまり前向きではない。
このような日本の現状で、政府や産業が主導で電子教科書を煽っても、梨の礫になる危険性は極めて高いと見るべきであろう。
とはいえ時代の曲がり角にあって、出版という概念も新しいタームへ転換していく時期に、Appleの提案は魅力的なところも大きいし、実際デザインのサイドで教科書に携わる身としては興味深い話題である。
ボクの個人的な見解だが、教科書というのは興味の入り口をそっと指し示すだけのシンプルな出版物であって欲しい。疑問に思ってもヒントさえ書いてない方がよい。興味を持ったら実物を穴が空くほど見て自分の手で丁寧に書き写し、ジタバタしながら答えを探して欲しい。だから間違っても《クアラルンプール》のテキストを触ると地球儀の映像がクルクルと周りながら飛び出してその位置がピカピカ輝きながら指し示される地理の教科書など作ってはいけない。大事なのは答えでなく、それを導き出すその子の学習の旅なのだから。