ガチな吹奏楽を聴く会

吹奏楽部の後輩の大学生たちの要望にお応えして、自宅で『ガチな吹奏楽を聴く会(命名は学生)』というプライベートな集中講義をさせて頂きました。
トルコのメフテルハーネやルネサンス音楽を経て教会のブラスアンサンブル・貴族お抱えのハルモニームジークや軍楽隊として発達し、市民革命を経て、近現代の軍楽隊、室内楽、オーケストラの管楽器セクション、そして軍楽隊から派生した民族ブラスバンド*1から新たな発展を遂げて現代ポップミュージックの基礎となるジャズの出現、プロの音楽《家》教育の一環としてフェネルが取り組んだウィンド・アンサンブル、現代の音楽としての取り組みの流れを、西洋音楽史・メディア史に乗せながら管楽器(吹奏楽)のために書かれた楽曲を聴いていってもらいました*2
スザートやジョヴァンニ・ガブリエリ、ヘンデルの音楽もモダンではなく古楽の演奏でその他、ハイドン、モーツァルト、ゴセック、ベートーヴェン、ロッシーニ、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、サンサーンス、ドボルジャーク、リヒャルト・シュトラウス、ホルスト、ヴォーン・ウィリアムズ、フローラン・シュミット、グレンジャー、ストラヴィンスキー、プーランク、クルト・ワイル、シェーンベルグ、ヒンデミット、ゴードン・ジェイコブ、コープランド、ペンデレツキ、ネリベル、カレル・フサ、ジョン・ウィリアムズ、マイケル・ドアティ(ドーガーティ)といった早々たる面々を次々と(と書くと専門性のある方にはお察しが付きますね)、6時間の長帳場とはいえ、これだけの分量ですので駆け足でした(モチロン間に食事などを優雅に摂りながらですよん)。
今回は第二次世界大戦前後にレコードやラジオの出現と共に手軽な音楽再生機としての役目を実質終えた吹奏楽が新たな役割として得たスクールバンド*3の歴史には触れていませんが、日本の多くの吹奏楽愛好家や学校での吹奏楽指導者の皆さんは、こちらのみを吹奏楽だと思っている節が多く、実際、聴講してくれた大学生たちも最初は殆どそういう認識でいただけに、大変新鮮だったようです。実際これらの作家の管楽器(吹奏楽)作品を殆ど知りませんでしたし、作家達の残した魅力的な音楽の数々に驚いていました。
吹奏楽というのは本当に長い時間、ほぼ*4専門の楽士が典礼や催事や戦意高揚や冠婚葬祭や娯楽鑑賞のために演奏をし、それを聴いて愉しむ音楽再生システム、つまり楽士の持ち運びが簡単で音量の調節が出来るため屋内外で演奏がフレキシブルに出来る利便性から発達したメディアデバイスだった訳です。
それぞれの時代の作家陣もそれに則した形で名作を書き下ろしているのですが、何分そういう役割を今の吹奏楽が(軍楽隊の典礼演奏を除いて)社会で殆ど担っていないので、吹奏楽愛好家の多くが*5触れる機会が少ないのが実情です。
ボクは日本において小中高とスクールバンドで学んでいる最中の児童や生徒ならともかく、これから社会人として世の中にコミットしていかなければならない大学生が、スクールバンドの延長のみの発想で吹奏楽に取り組む事に非常に懸念を抱いています。スクールバンドの延長線で社会に出て吹奏楽に取り組むと、いつまでも指導者の指示待ち、或いは学生時代に取り組んだ楽曲を繰り返すようなノスタルジーとカタルシスだけのカラオケ的発想のまま音楽に対面する事になり、自身の音楽性を実質上インプットすることもアウトプットすることも出来なくなるからです。
音楽表現としての自身の可能性を自分の頭で考えるひとつのキッカケになってもらえればと思います。

*1:今回は民族ブラスバンドについては多く時間を割く事が出来ませんでした。ちょっともったいなかった

*2:日本の作家陣についても今回は時間がなく詳細は割愛

*3:音楽家を養成するため専門機関でなく、一般の学校教育として吹奏楽を利用すること。

*4:民族ブラスバンドは別に職能を持っている場合が殆ど

*5:その中でも古楽・室内楽・軍楽・民族音楽を愛好する指向を持つ方を除いて