つじつま(その3)

それで情報通信革命というのは、一方でコミュニケーションの世界的な広がりとビジネスの新たな可能性を一人一人に示してくれたものの、一方でアメリカを中心とするクレーム文化みたいなものを蔓延させることになったように思えます。
それを徹底的に見せつけられたのが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降のアメリカの取った行動です。兎に角《気に入らない存在は大声でdisってツブせば正義》という理屈を目に見える形で示し続けました。そしてインターネットと日本でのネット・デバイスの中心となっていた携帯電話(後のスマートフォン)はそれを個人レベルで(匿名で)行える手軽な手段として急激に発達していきます。
以前は裁判で負けて「ネコを電子レンジで温めてはいけない」と説明書に書かなければいけなくなったアメリカの家電メーカーをアリエナイ冗談みたいな話として笑い飛ばしていたのが、対岸の火事ではなくなりました。まず第一に「クレームを付けられないように」というのが企業や自治体の優先課題になり、企業や自治体や有名人にクレームをつけて鬼のクビを取ったかのような態度を取る消費者が増え始め、その繰り返しがお互いを監視し合い、ちょっとでも辻褄が合わなければ叩けみたいな雰囲気を作り始めました。長引く不況に伴う閉塞感がそれを後押ししている様にも見えました。
それに2011年の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故がこの様相を複雑にします。
震災の救援活動や復興支援に伴う「絆」だの「人のつながりの有り難さ」などを謳う一方で、原発事故に関連した企業や政府の対応を叩き、放射性物質の拡散や廃棄物の処理を巡っての異常なまでのdisり合戦、汚染地域への目に見えない差別・・・これらの殆どが当事者同士というより実質上の外部同士が怒鳴り合っているという醜態。
また、全く逆サイドで「いい話だったらウソでもいいから拡散してOK」みたいな、まるで情報リテラシーが成っていない態度も散見されたり。これだって、人と人との信頼関係が希薄だからこそ起こる誤ったコミュニケーションです。
そろそろボクらは色んなコトって、みんなホンノリ辻褄(つじつま)が合ってなくて、そこを人と人の信頼関係でフンワリと繋いで成り立っていることを再確認しなければならないし、そういった認識で高度に情報化した世の中を適度にフンワリさせなければならないと思うのです。
建築物でも音楽でもデザインでもそうですが、最終的に辻褄を合わせるには《遊び》の部分を作らなければいけません。四角四面に進めると絶対にズレるし面白みがなくなります。《遊び》の部分が大切。それが人と人とのコミュニケーションであれば、大切なのはdisることではなくて精神的な余裕、つまり《遊び》です。遊びっていうのは目に見えません。
サン・テグジュペリが『星の王子さま』で書いた「大切なものは、目に見えない」という言葉のもう一つの意味は、そういうことなんだと思います。