誰が吹奏楽を殺すのか(破綻篇)

ここ数ヶ月、携帯電話のメモに膨大な量の文章が溜まっている。この『誰吹』の最終章の書きかけ原稿の数々だ。
そもそも本稿は日本のプロフェッショナルの吹奏楽団(または業界)が何処へ向かうのかを、トロンボーン演奏が趣味で吹奏楽に絡んだ仕事に数多く携わるデザイナーの目線で問うてみようと始めたのだった。
が、話はあっちゃこっちゃ飛んだし、どう書こうか悩んだ。
ボクは職業と趣味柄、それこそ世界で活躍するトップアーティストから中学校の部活で頑張る子供まで、つねに世間に注目される大きなプロジェクトの仕掛人として活躍するプロデューサーから市民音楽祭の吹奏楽団集めに頭を悩ますお役人さんまで、レコーディングから海外遠征までこなす市民バンドから仕事がなくて困っているプロ楽団まで、ヒット商品を売り出す方からそれを購入される方まで、色んな立場の色んな方々のお話を聞いたり、様々なプロジェクトに参加させていただいたり、はたまた自分たちのアンサンブルの活動を続けて来た。
それぞれの立場から見える風景には共感できる。しかし、あちらの言い分を立てればこちらが立たずで、それを埋めるべく次に求められている歯車の形がなかなか見つからない。
 
ただ、業界としての形は見えて来た。
 
ここ半世紀の日本の吹奏楽は、アメリカの教育吹奏楽を採り入れ、その主な成果はスクールバンド中心の吹奏楽コンクールで発揮されてきた。それに伴ったハード産業(とここでは敢えて定義する)として楽器や音楽出版が、ソフト産業としてバンド指導とプロフェッショナル楽団によるデモンストレーションとしての演奏興行が発達した。
吹奏楽という音楽業界が特徴的なのは、エンドユーザーがオーディエンス(聴衆)ではなくてアマチュアプレイヤー(奏者)であるという点だ。
似た業界としては合唱や邦楽がある。音楽でなければ、茶道・華道だ。
お手本を示す指導者としてのプロフェッショナルと、それを習い・たしなむ多くのアマチュア(弟子)という構図がモデルとして一般的だ。中には他ジャンルにも認められる実力と社交性を兼ね備えたスターもいるが、それは極めて《スペシャル》である。
小中学校でクラブ活動の顧問の先生から指導を受ける《習い事》としてスタートする吹奏楽は、市民バンドにいたっても基本的にその構図は揺るがず、指揮を振る《指導者》と演奏をする大勢の《アマチュア奏者》で成り立っている。
アマチュアがプレーも楽しむ娯楽としてスポーツがあるが、必ずしも競技人口≒趣味人口ではない。スポーツは観戦を楽しむだけの人が圧倒的に多い。ところが吹奏楽は逆だ。観賞だけの人は圧倒的に少ない。音楽という枠にまで広げればその限りではないが、そうなってくると聴衆の選択肢に吹奏楽鑑賞という需要は圧倒的に少ない。
それでは、スポーツと吹奏楽が似ていないかというと、そうでもない。アマチュアの世界では《自らプレーすること》に最終的な楽しみを得ている、という点では同じであり、究極言って、両者とも最終的に『沢山の人に、どう試合(演奏)を楽しんで観て(聴いて)もらえるか』に関心はない。
大事なのは所属チームの勝ち負けだ(しかも遊びの範囲内として捉えられる程度の)。吹奏楽で言えば指導者からの評価(または自分の目標通りにミスなく譜面をトレース出来たか)、もしくはコンクール審査結果だ。
 
プレイング・ホビー(体験型趣味)の場合、それを取り巻く周辺産業とサービスの充実度が、その業界の人気のバロメーターとなる。その点ではスポーツは随分先を行っている。道具・ウェアー・競技施設・トレーニング環境・グッズ・コミュニティ・イベント・・・。吹奏楽はその辺りはまだまだ未発達な部分が多い。逆に言えばノビシロがあるのだが、著作権に対する意識改革など、解決すべき問題も多い。
 
それと本題であるプロフェッショナルの存在意義において、プレイング・ホビーの中でも「プロフェッショナル先行型」と「たしなみ型」ではスタンスが違うことも分かってきた。
その中でも吹奏楽は後者に属していることも。アマチュア・オケというジャンルが似ていても上の点で最終的に違うことも。
そして、演奏家として前者でありたいと願うプロフェッショナルと、指導者として後者の成功に意義を見いだすプロフェッショナルとの間でジレンマと揺れ動きがあることも。
 
自分自身、内容が全くまとまりと一貫性が無くなって来ていることに危惧しながら、ブログという媒体であることだし、めげずに考えていきたい。
という訳で、まだ本稿、終わってません。
 
いままでの「誰吹」
誰が吹奏楽を殺すのか(1)
誰が吹奏楽を殺すのか(2)
誰が吹奏楽を殺すのか(3)
誰が吹奏楽を殺すのか(番外編)
誰が吹奏楽を殺すのか(4)
誰が吹奏楽を殺すのか(5)
誰が吹奏楽を殺すのか(6)
誰が吹奏楽を殺すのか(番外編その2)