愛おしい時間

先日、中学時代からの友人が東京に用事で出てくるというので、荒木さんの公演が始まる前に上野で落ち合った。もう5年は会ってないというのに、昨日も一緒だったかのような取り留めもない話しかしないのは、それだけ気の置けない仲であるということだろう。別れ際もアッサリしていたが、次に会えるのは・・・いつだろう。
学校生活や会社勤めというのから解放されると、毎日のように顔を見合わせる家族以外の人間というのは極端に減る。当時は毎日仲間と会うのが当たり前だと思っていたのが、実は全く当たり前ではなかったということに気付く。
親だってそうだ。ボクは高校二年の春から一人暮らしを始めたので、家を出てからもう30年近く経ってしまっているのだが、その間に両親と顔を合わせたのって、たぶん多く見積もっても合計2ヶ月あるかないかではないだろうか。
実は仲が良いだけに何となく過ごしてしまう時間というのはナンと貴重で愛おしい時間なのだろう。そしてそれは、毎日のように顔を合わせていた頃だって一緒だったのだ。共に過ごした時間というのは、ノスタルジーでも何でもなく、一秒一秒が限りなく貴重で意味深い時間なのだ。
いまは、それが解っていても、仲が良いほど素っ気ない挨拶で、出会い・別れてしまう。でもきっとそれは、そんな事を考えたら、どうしようもなくなって泣いてしまうからだと思う。