『表現する仕事』における《あなたらしさ》について

先日、仕事でちょっと面白い体験をしました。でもこれって、デザインだけでなく、表現を仕事にする人にとっても共通する話題だと思うので、書きますね。
先日、とあるクライアントのデザイン案のプレゼンで3つほどご提案させていただいた所、この中のひとつに再提出が要求されました。曰く「エッジが利き過ぎているので、もうちょっと具体的な表現が欲しい」
そこで、具象的なモチーフを素材にした再提出案をお出ししたところ、次には全アイデアにボツが下りました。担当曰く「今回はいつものotoshimonoさんらしい切れ味が全くない。どうしちゃったんですか?」
ちょっとビックリしました。長いお付き合いのクライアントの担当者なのですが、こういう言われ方をしたのは初めてだったからです。しかも自分はいつも通り、打ち合わせや仕様書に忠実に、奇をてらった訳ではないスタンスで取り組んだプレゼンでした。
そこで企画仕様書をもう一度注意深く見返しました。そこには長々とデザインに対する要望がかなり具体的に書いてあるのですが、それとは違う筆跡で、外にもう一言書いてあります。曰く「色々ありますが、おまかせします」。
この筆跡こそが担当者の筆跡。で、長々と要望を書かれていた方は別の方の筆跡、多分、この案件の別の企画者の筆跡なのでしょう。
「ハハーン」と思って、私は方針転換をしました。長々と書かれた希望を全く無視し、この担当者の方の好みのデザインテイストに絞って全く新しく3案を作り直して提出したのです。
すると、アッサリ通りました。
仕様書にビッシリ書かれた要望を全く無視したにも関わらずです。
ここで大事なのは、私が全ての要望を無視して好き勝手にデザインしたのではなく、企画仕様書の要望ではなく、担当者の嗜好に忠実にデザインした、ということ。
つまり担当者の言うところの「otoshimonoさんらしい切れ味」というのは、私の個性の事を示している訳ではない、ということなんです。相手が好みとするところの「otoshimonoさんの表現」であるかどうか、という問題なのです。私が最初に提出した3案は企画仕様書を書いた方にとってはジャストミートな可能性は高くても、彼にとっては(その要望すら)まったくズレたものだったのでしょう。それが「色々ありますが、おまかせします」のメモの真意だったのです。
さて、ここから導き出します。
表現する仕事においてクライアントから《あなたらしさ》が求められている場合の殆どは、「テメーが考える所の個性を出せ」という訳でなく「オレの好きなテメーのテイストを出せ」ということです。ここを履き違えるとトンデモナク揉めます。求められているのはテメーの新しい可能性ではなく、オレの希望を叶えてくれて尚かつ売れること、だからです。
そのクライアントとの付き合いが浅い場合は尚の事、それまでのヒット作やポートフォリオや評判とは違う表現をしてしまうと「あいつは言う事をきかない」で一蹴されます。
しかし、いくらクライアントが求めるからと言って、今日もパンケーキ、明日もパンケーキでは、飽きられてしまいます。非常に勝手に聞こえる言い分ですが「アイツは表現が単調だ」となります。
なので、つねに新しい表現をどこかで見せておく必要があります。つまり3案見せられるのであれば、1案はストライクを作っておいて、あとの案に別のテイストをこっそり忍び込ませておくのです。よく言われるのですが「3案も殆ど仕上がりの状態で作っておいて、通るのは1つなんだからキメ込んだ方がコスパいいじゃん」と。でも私の真意はこうです。「他の2つは捨て案じゃないよ。次の仕事にむけてのポートフォリオだよ」
しかも、ストライク案ではない方が採用されたら万々歳です。それはクライアント側に新しいチャンネルが出来た証拠だから。
実は先程の担当者の言う「otoshimonoらしさ」はお付き合いを始めた最初期からも少しずつ変わっています。これは常に私が提出した“落ちた方の案”にも引っ張られているからというのもありますし、私が彼の好みのテイストを学んできたから、ということもあります。
上記の展開は、所謂《芸術》というスタンスからは遠い考え方かもしれません。孤高の極みを目指して表現をされている方にはこういう考え方で表現活動に取り組んでいる者を情けなくさえ思われるでしょう。しかしながら私の仕事はAさんが持っている「情報」や「気持ち」をBさんに伝えるお手伝いとしてデザインを表現として用いることにあります。
私は表現というのは「俺が俺が」では成り立たないと思っています。常に受け手に寄り添い、受け手の人生に溶け込んで、形がなくなってしまってこそ、成り立つのだと思っています。その溶け込んだ誰かの人生の片隅に住まわせてもらえれば、表現者冥利に尽きると思いませんか?