とある書簡より備忘録

とあるやりとりの中で、昨今の日本の吹奏楽に話題が及んだ時のボクの答え

ミクロ的視座に立つと、日本の「吹奏楽」(カッコ付きです)が表現活動でなく、華道や茶道やフラダンスと類似した《お稽古事》フォーマットを脱しない限り、愛好家(≒アマチュア演奏家)は師匠(指導者)の示したお手本を忠実にトレースすることに美徳とカタルシスを感じてしまうと思いますし、過去にトレースした作品には「懐かしい」というノスタルジー以外の美観を持てない現状が再生産され続けるのだと思います。
これがトレーニング中の初学者(つまり小中高と音大を含む大学生)である場合は(諸所の問題があるにせよ)有効な部分も多いとは思いますが、問題は、社会人になってからもお稽古事やアマチュアコンテストの賞歴から独自の表現活動や多様な鑑賞活動にシフト出来ない人々にあると思っています(そこから抜けている人はその市場には存在しなくなっているので認識されないわけで)。
マクロ的視座に立つと、幕末に軍楽としてブラスバンド(*)が日本に輸入されて以降、日本文化に取り込まれていく中でローカライズされたバリエーションの一つの流れ(編成としても思想としても社会的位置としても)だと言えるのではないかと考えています。
[*ブラスバンド=ここでは管楽器を主体とした合奏体と定義します]

後者に書かれているマクロ視点でブラスバンドを捉える方は本当に少ないです。
世界中、歴史を縦軸に、地理的広がりを横軸に、互いに文化の網の目のせめぎ合いによる変容でブラスバンド文化は多様性を持ちました。そこには交易や戦争やテクノロジーなどの影響が何百年にも渡って複雑に絡み合っており、その豊穣なバリエーションは正邪も貴賎もないわけです。いわゆるクラシック音楽をデファクトスタンダードに考えていると大変な落とし穴がありますし、かといって各国の伝統音楽なるものを原理主義的に捉えると、どこから見てもブラスバンド文化は後に入り込んできた異物に見えます。特に日本は幕末以後に西洋文化としてブラスバンドが輸入されてきた経緯が強く、自らのローカライズされている部分を捉えにくい状況がありますし、生まれてきたバリエーションについても正邪や貴賎で判断を下しがちです。
しかし、マクロな視座を持つことにより、内包する問題に新しい可能性を見出すことができます。今後、日本の吹奏楽が衰退するかさらに広がりを見せるかは、関係する人々の、この意識改革にかかっている様に思えます。