ミッションとパッション

さいたまファンファーレクラブの練習がやっと再開した六月の半ば、メンバーの仲間たちは、集合時間より随分早く練習会場に到着していたようでした。いつもは遅刻気味なメンバーさえもが前入りしてウズウズと待ってたんです。それほど仲間と楽器を演奏できるのを心待ちにしていたんです。演奏会が開けるかどうかも正直わからないのに、演奏会をやるやらないではなく、あぁ楽器吹くのが、合奏を楽しむのが本当に好きなんだなぁ、と思いました。

これは私見ですが、表現行為というのは「そうせずにはいられない」ものであって、「それをしなければならない」ものではありません。成果を他者に示すためのミッションではなく、自己が思いの丈を発するパッションです。

他者に成果を示すために体調不良を押して臨んだり、他者の評価を得るために死ぬ気で技術を磨いたりするのは、言ってみれば、それはもはや趣味ではなくて業務です。私にとってのデザインがそれです。幸いデザインも好きで得意な方なのですが、勿論、食べていくために、依頼内容は(余程条件が合わない限り)選り好み出来ませんし、依頼者の満足度を上げるため、例えそれが好みに合わない仕事であっても努力は惜しみません。だからこそデザインが業務な限り、努力は満遍なく報われたいし、それに伴う金銭報酬はしっかり得たいと思います。逆に業務でなければ1銭も儲からない成果のために1ミリも線を描きたくないでしょう。

しかし、好きな事を夢中になって時間を忘れて取り組んでいるとき「俺は今、強い気持ちで死ぬ気で努力しているんだ、だから報われるべきなんだ」と人は感じているのでしょうか? 今目の前に向かって取り組んでいることそのものが楽しくて仕方ないのではないでしょうか? 僕は、仕事ではない自発的なイラストを夢中で描いてる時、ヘッタクソなバストロンボーンを夢中で演奏している時、おそらく「報われたいから表現している」とこれっぽっちも思ってません。ただただ、楽しい。失敗しても楽しい。発表しなくても楽しい。ただただ、そうしたい、それだけ。

日本だけでなく世界的にアマチュアの音楽コンテストやコンサートの開催が見送られる中、もはや不要不急でしかない趣味の音楽演奏は、それぞれの個人に向かって、今まで「パッションでやっていたものなのか」「ミッションでやっていたものなか」と言う問いを突きつけていると思います。これって、割と大事なことなのではないか、と考えます。

それは、例えば、あなたの所属する音楽団体が再始動するとき、メンバーがこれまでの自分たちの活動についてどう考え、これからどう活動していきたいのかの、指針になると思います。