五百羅漢図を観て。


《絵が上手い》のと《絵を描くのが好き》なのとは全く違う───。
友人とemixに連れられて行った江戸東京博物館の増上寺秘蔵の仏画「五百羅漢」幕末の絵師狩野一信を鑑賞しての感想だ。
事前にNHKでのドキュメンタリーを見ていたので概略は理解しての鑑賞だったのだが、狩野一信という人は絵を描くこと《だけ》に人生を注いだような人だ。特に死ぬまでの10年は殆どこの五百羅漢図の為に没頭するのだが、それは信仰心とか成功への虚栄心とかではなく、狂おしいばかりに自分の絵世界を画布に定着させることだけに興味があったのだろう。しかし、その執着心により健康と精神を概していき、自らの手で完成させることが出来なくなってしまうのだが・・・。
絵を商売で描いている人は一信の絵を見て一目瞭然だと思うが、彼の絵は下手だ*1。デッサンはくずれ、アングルは絵画としては破綻している。人物描写は躍動感に欠け、堅い。途中で西洋画の陰影技法を突然取り入れ試行錯誤を繰り返したため、全100幅の羅漢図は病理に犯されて弟子に仕上げを譲る前からアートディレクションとしても破綻している。ところが微細の描き込みや、技法への拘りと挑戦と完成度の度合いは尋常ではない。金泥を使って画を光らせたり曇らせたりラインをどう使い分ければ良いのか、青の顔料の配分とその隣合う部分の描き込みはどうするべきか、主線と副線の関係をどう持たせるか、陰影技法を取り入れた場合に適正な主線の太さは、植物や動物の質感を出すために適切な筆遣いはどうあるべきか・・・。若冲の博物的な観察眼、北斎の動体を捉える力とデッサン力、彼らが持ち合わせた人への「見せ方」としてのタッチへの拘り、アートディレクターとしての目線。そういった物とは全く異質であり異常とも言える自分の絵世界へ偏執ぶり。そして世界観への拘り。時にグロテスクでありエロティシズムの極致である題材も世界観に必要とあらば、仏画であっても躊躇うよりノリに乗って描いてしまう。
図録の解説には河鍋暁斎が一信を「その技倆にいたりては、多く恐るるに足らず。ただその精力にいたりては、我儕(わがともがら)の及ぶ所にあらずして、常に之を称しき」と言及したのが、開帳された五百羅漢図の後半しか見ていなかったからなのではないか、と評しているがおそらくこれは違う。暁斎は単純に絵が下手だと思ったのだ。しかし、その得体の知れないエネルギーと絵画技法そのものに対する異常な拘りには恐れをなしたのだ。
ボクは一信の絵を見て思い浮かべた画家が数人いる。一人は言わずとしれたゴッホ(絵に対する人生感が特に)。「快楽の園」というトンデモ絵画の作者であるネーデルラント・ルネサンスを代表する画家ヒエロニムス・ボス(絵の世界観が一信と同じなのではないかと思う)。そして奇書「非現実の王国で」を記したヘンリー・ダーガー(最近はアウトサイダー・アートの代表的な作家として評価が高い。もっとも本人は作家だとも思っていなかったらしい)。彼らと一信の共通点は勿論、「《絵が上手い》わけではないが《絵を描くのが好き》」であり、その狂信的な情熱で見るものを圧倒してしまう力を持っていることである。
それは《絵の上手い》人がどんなに逆立ちしても及ばない領域なのである。

*1:これは単純なテクニックとして技巧が高いのとは全く別問題。実はこういう意味で絵が上手い人というのは案外多くない