仕様書

原稿の受け取りに急行の止まる駅に向かう車の中でNHK-FMのベストオブクラシックで近藤譲さんによるヨーロッパの現代音楽の特集を聴いた。先日、横浜トリエンナーレを観てきたこともあり、今や芸術としての表現やその立ち現れ方というのは、音楽であろうと美術であろうと同じことで、その境界線さえもなくなったな、と改めて思った。
しかし、その境界線が消えたというのは鑑賞者の側に立った見方であって、発信する側からすると、それぞれの表現技術においてさらなる専門性が求められる時代になったと感じた。
例えば作曲家が書き出す楽譜はもはや作品を成立させるための仕様書であり、色んな意味での緻密さが要求されている。実際音を発するのは演奏者であり、彼らがこの仕様書を読み解くのであるから、どんなに複雑な作品であっても演奏者に理解出来る代物でなければならない。場合によっては作者との直接対話も必要であるが、基本はこの仕様書のみで作品を組み上げられるからこそ「楽譜」なのだ。もっとも演奏者の力も相当に高度でなければ作品として成立させることは難しい場合も多いが・・・・
これはデザイナーの祖父江慎さんが送り出す破天荒な本の装丁において高度で緻密な仕様書を書くのと同じあり、それに応える製版や製本の職人さんたちとの作業と重ね合わせることが出来る。
鋳造による彫刻作品も同じ。原型のコピーをとれば「ハイ、出来ました」ではない。型を取ったとはいえ、鋳造したての鋳物は原型のソレとは似ても似つかないもので、これを職人さん達が原型や仕様書に遵って作品としてブラッシュアップしていくのだ。
ダンスもそう、演劇もそう、インスタレーションだってそう。単体として成立させることよりも何かとの関係性の上で成り立たせることが多い現代の芸術表現は、それぞれの高度な意味での専門性を発揮させるための強力な仕様書作りを求められている。
そしてそれによって組み上げられた表現が個性をもった芸術として発露され、鑑賞者の五感に届けられ共鳴する。しかし、そこで響き合う感性《想いの立ち現れ様》にはもはや専門的な境界線がないというのは、何とも面白いではないか。