ダイナミクスレンジ

世の中の動きが暴力的になっているためか、今の日本では細やかな違いを繊細な表現で伝えるのが下手になっているように思える。その代わりに事件やメディアで注目された大袈裟な言葉などを並べて、逆説的に日常の悲喜交々を描く表現が好まれているようだ。▼ちょっと前に流行った表現から例を出すと「想定の範囲内(ギリギリセーフ。危うく足元掬われるところだったぜ)」、最近では「予想外(ちょっとビックリしましたね)」。「やばい(ちょっとイイカンジ/ヤなカンジ)」「神(自分では億劫なことを代わりにやってくれたチョット偉い人)」「どんだけー(まぁ、そんなこともあるのね)」「そんなの関係ねぇ(この話題まとめるのが少し面倒臭いデス)」。一見アイロニーを伴った面白い表現だが、注意しないと無意味な発言を連発するだけの薄っぺらい人間だと受け取られかねない。▼大袈裟な表現というのは最初の頃は新鮮な響きとギャップにインパクトがあるので面白がられるが、少し経つとギャップそのものが感じられなくなりたちまち褪せてきてしまう。そもそも言葉というものはインフレーションを起こす。例えば「超」という表現などはかつて「とても」「ものスゴく」などより上の度合いを示すものだったが、今では大した違いはない。表現の量的なグラデーションが破壊され、均質化されていく。均質化され消費され尽くした言葉は忘れ去られ、新たな表現が求められる。ある程度は仕方がないとしても、表現の褪せるスパンが日に日に短くなって来ている気がする。かつて「死語」という言葉が流行ったが、今やそれすらが死語だ。▼何も日本語が美しくある必要はないが、極端な表現の割に均質な中味しかない言葉に陥るとすれば、これは深刻だ。乱暴な時代だからこそ感覚が鈍化していくのか。自分が傷つかないための防衛策なのか。▼「だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた/ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた/めかくし鬼さん 手のなる方へ すましたお耳に かすかにしみた/よんでる口ぶえ もずの声/ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた(『小さい秋みつけた』より/詞:サトウハチロー)」▼思春期に亡くした母親に対する思い出を、秋という季節を題材に、少ない言葉で感情のグラデーションを描いてみせたこの作品の真骨頂はやはり一番の歌詞の中の「かすかにしみた」に集約されている。サトウハチローは希代の詩人であり、凡人である私たちには難しい表現かもしれないが、深い悲しみや逃げ出したい焦燥感、うつろい行く世の中を、もっと抑えた表現で最大限に表現したいものだ。それにこそ言葉の価値がある。