designare


製紙会社の営業さんがいらっしゃって新製品の説明をしていただきました。(業界の方には何処の営業さんかはバレバレな写真)
営業さんはボクに対して多分《装丁家》という情報を得て訪ねていらっしゃったのだと思います。実際案内された商品や求められた感想の殆どが装丁に関するものでした。勿論そのジャンルでは評価を頂いてますし、今でも相当数の装丁の依頼を御請けしておりますし、知識や技術に関しても17年もやっていればイッパシだと思いますので《装丁家》を名乗っても良いのでしょうが、自分自身は一度も自分の事を《装丁家》だと思った事がないのです。別に仕事に誇りがないわけでもなく、自分の仕事の中でもトリワケ大事な部分かとは思いますが、自分のフィールドが装丁に特化している訳ではないので。やはり自分は《デザイナー》だと思っています。
デザインというのはコミュニケーションの通りを制御する行為だと思っています。媒体は何でも良いですし、形の有無も問わないと思います。デザイン(design)の語源は〈計画を記号に表す〉という意味のラテン語『designare』だと言います。また〈分離・除去・降下・否定〉を意味する接頭辞としての『de』と〈印を付ける〉という意味の『sign』が合わさって『de+sign』であり〈下地に印を付ける〉〈それぞれの記号を分解し意味を再構築する〉というニュアンスになります。つまり目に見えない部分を制御するのがデザインの本質であり、その設計が上手くいけば7割仕事が終わったも同然です。あとは受けての趣味に合う服を着てもらうだけ。
そういった意味でボクがデザインするものは表面でなく、その有様です。どういう風にその媒体や企画が世界に対面していくのかを主体(発信者)の要望に沿って根幹で制御する仕事です。「こうしたい・ありたい」を無意識下に働きかける仕事だと思っています。
それは装丁であり書籍フォーマットでありグラフィックでありCDパッケージでありフライヤでありイベントであり、です。誰もが気付かない部分で働くオペレーションシステムです。
また『design』の語感が〈強い望み〉や〈欲望〉を意味する『desire』と似ているのも大変興味深いです。全てのデザインには誰かの希望と欲望が込められている。
なんだかそういうとデザイナーというのは悪の組織の影の支配者みたいでコワイですね。さらに《装丁家》でなく《デザイナー》だと言っているボクは欲望の塊みたいですね。控えめにしときながらまったく謙虚さがナイ(笑)。
で、最初の話に違う着地点で戻ります。書籍における紙というのは文字や画像情報を刻み込む素材そのものであり視覚に訴えると同時に手に持った時の触覚に訴えます。また僅かですが嗅覚にも。普段皆さんはそれほど意識されないと思いますが、紙のセレクトで書籍の印象は全く変わります。これは何も装丁やパッケージで使うファンシーペーパーと呼ばれる特殊なタイプだけでなく、パラパラとめくる本文の紙も含め全てです。但しその書籍が商品である限りはコストとの戦いがあります。そのパッケージに相応しい紙選びとコストに見合った紙選びは、大体においてズレます。ここがデザイナーの腕の見せ所のひとつなのですが、ヤクが多過ぎて麻雀より難しい(笑)。上手く出来るデザイナーさんにはいつも頭が下がりますし、本日の様なメーカーさんや商社さんの情報は有り難いです。この辺りは一生勉強です。